私に価値があるかないかと考えこむ時間を別の時間にあてよう~姑の介護を二週間して考えたこと~

姑サーちゃんの介護をして1週間がたった。

…と、よく数えたら2週間だ。

あっというまだったなぁ!

この2週間のサーちゃんの容態の経過はこんなふうだった。

・寝たきりを5日ほど

・体を起こせるが歩けない状態を5日ほど

・介助してもらいながら歩ける状態を3日ほど

・介助なしで自力で歩ける!(この2日)←new‼

一人で歩けたという喜びの一報をもらったとき、私の感想は、「うわ~。また勝手に一人で歩いたのかぁ」だった。

ごめん、だって、サーちゃんは本人が思っている以上に転倒しやすいんだもの。

転ぶ可能性があるから声をかけてね、(一人で歩きたい気持ちは尊重して手を出さずに)そばで見てるようにするから、とあんなに言ったのにぃ。

…と思ったけど、口に出さずにおいた。

そんな小言は後でいい。

「わぁ~よかった!」と言い、夫にも娘にもすぐに伝えた。

夫はまず神への感謝の言葉を口にし、娘は「おばあちゃんよかったね!」とサーちゃんに駆け寄った。

久しぶりに、家族みんなが嬉しい瞬間だった。

こう書くと美しいが、元気になったら元気になったでいろいろある。

元気になった分だけ大きな声で、なんだかんだと呼びつけられる。

やれ紅茶飲みたい、頭がかゆい、寒い、〇〇(親族の名前)はどうしてるだろう?…など。

そのたびに私は自分の手を止めて、お茶を淹れたり、シラミをとる櫛を渡したり、毛布を持ち運んだり、「知らんがな」と思いながら話を合わせたりするわけだ。

こんなときは、もういっそ寝ててくれたらいいのにと思う。

それでも、「歩けた!」という事実は、私たち介護者の苦労を上回る感動があった。

何より、サーちゃん自身が自ら握手を求めてくるくらい喜んだのだ。

歩ける!

それだけで本人もうれしい、家族もうれしい。

このかんじ…何かに似ている。

そうだ、娘がはじめて歩いたときだ。

あのときも嬉しかったな。

娘だけでなくて、近所の小さな子たちが歩けるようになるのも嬉しいよな~。

あれ、そういや、毎日毎日、私も歩けているぞ?

そのことに対して、サーちゃんに向けたのと同じような喜びを感じているだろうか。

ー残念ながら、否、だなぁ。

私は中学生のとき、両足の人差し指や中指につながる骨を疲労骨折した。

目指していた駅伝大会には出られなかったし、ペンギンのような歩き方でいつもの倍以上の時間をかけて通学していたのに…。

そんなことも忘れちゃうものなんだなぁ。

それどころか、自分には価値がないんじゃないかと訝ってみたり、今日も何もしなかったと反省もどきをしてみたり、誰かの役に立てなかったと嘆いたり、する。

おい、コラ、待て。

それらに嘆く時間があったら、今自分がもてるものを祝福しようぜ。

あ~今日も歩ける。

あ~今日も家族が歩ける。

あ~今日も目が見える。

あ~今日も鳥のさえずりが聞こえる。

あ~今日もごはんが食べられる、雨露凌いで眠れる。

あ~今日も…今日も生かされている。

うれしいなぁ、ありがとう。

あっというまに満たされる。

これのほうが、嘆くよりはるかに気分いいやん。

うん、そうしよう←単純。思い立ったらすぐやる人。

何もかもにイライラ・ムカムカしたり、逆に自信をなくして消え入りそうになったりすることってある。

誰にでもあるかどうかはわからないけど、私はある。

それは不定期的にやってくるもので、予測はできない。

まぁやってきたら受け入れる。

でも、その波に飲み込まれないように、意識的にあるものに目を向けよう。

同じ時間を使うんだったら、自分の気分がよくなることに使いたいよね。

それに、私の気分がいいと私の周りにいる人も気分よくいられるものね。

姑サーちゃんの介護をしていただけなのに、こんな話に繋がるなんて不思議だな。

そうだ、今日のこの気づきは介護のご褒美ってことにしよう。

今日もいい一日だった。

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