ロンボク島地震/避難生活記録・7-8日目~余裕が出てきて新しいフェーズへ

パギー(おはよう)、みどりやで。

週末の避難地の様子を記録するよ。

電波悪く写真をアップロードできなかったので更新遅れましたが、やっと!更新(8/22)

なお、本文は最下段の寄付状況を除き、8/13に書いたものをそのまま掲載している。

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●8月11、12日(土日) ロンボク地震発生後7、8日後

8月5日に被災してから一週間。みなでしゃかりきに働くことが少なくなってきた。子どもだけでなく大人も昼寝をしたり、遊んだりする時間がとれる。

↑お昼寝タイム

↑トランプで束の間の気晴らし

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軽い病気にかかる者もでてきた。

人々は、圧倒的に需要のあった傷薬だけでなく、頭痛薬や風邪藥のほか持病の糖尿病やリウマチなどの薬を求めるようになった。緊張が解け、疲れがでてきたのかな。こうやって疲れが出ることは、疲れていることを疲れていることとして認知できるのでよいことだと思う。体の調整機能はすごいもんだ。

病気といえば、このあたりはマラリアやデング熱の発生地域なので蚊に気をつけないといけないのだが、なぜか避難地には蚊がいない。

叔母が「蚊を一匹もみてないよね? 家にいたら蚊がいっぱいなのになんでだろう?」と呆れた顔を向けてきた。

「周りに水がないからじゃない?」と答えると、叔母は「水あるじゃん」と避難地の丘の下の井戸を指差した。

「いや、あれは蚊にとっては遠いんだよ」

「なるほど、家なら溜め水があるもんね」

「そうそう。ネズミやゴキブリも見ないよね」

「あいつらもわかってんじゃないの。今ここの人間は大変だから、出て行かないでやろうって」

ギャハハハハ!

今回の地震が乾季に起こったのは、不幸中の幸いの最たるものである。屋外の作業がしやすい、子どもを外で遊ばせることができる、洗濯が乾く。そして、このように衛生面で受ける恩恵も大きい。私たちはまだまだ幸運を見つけることができる。

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私はというと、土曜の朝からお腹の様子がどうもおかしい。やばいなぁと思っていたら昼頃にいよいよ下した。トイレにいくには竹橋を渡らねばならない。危ないので一人で行きたいのに娘がママァとついて来ようとする。「ママはおなかが痛くてあなたの面倒までみられないからここで待っててね」なんていう余裕ある言い方ができず、「あかん、お腹痛いねんっ」にしかならない。見兼ねた夫がトイレまで娘とついてきてくれた。

トイレくらいでと思うかもしれないが、竹橋を渡るだけでなく、水を流すために井戸から水を組み上げねばならないのだ。お腹が痛いとできないので助かった。

この竹橋も男性達が作ってくれた。まだ青竹なのでできて間もないことがわかっていただけると思う。ここを娘を抱いて渡る。橋の向こうに見える白い家は避難地から最も近い家。壁はあるが奥の部屋は倒壊している。それでも、ある場所をみなのために井戸を提供してくれる。ありがとう。お手洗いはここから二軒隣の家へ。

私の腹痛はおそらく、前日に喜んで食べた久しぶりの野菜料理のためだろう。久しぶりに激辛料理を食べてお腹が刺激されたのかな。お手洗いに行った後はなんともなくなった。

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土日を利用して物資を届けてくれた方もいた。

土曜日、マタラム大学の学生たちがチームを組んで来てくれた。私たちの避難地には同大学の学生がいるのだ。一人、スラバヤ出身の医学部の学生が、私と娘が読んでいた日本語の絵本のタイトルを読み上げた。「日本語がわかるの?」と聞くと、「はい、少しだけ。お母さん、日本人です」と笑った。おかあさーん、息子さんがロンボクで被災して心配でしたよね。こうして頼もしく避難地に来てくれていますよー!

日曜日はバリから甲斐さんチームが車とフェリーを乗り継いでやって来てくれた。

ちなみに甲斐さんと私は直接会ったことがない。私がロンボクコーヒーに関して疑問があった時に知人を介して紹介していただいた。そのとき電話で一度話して、それ以降はFacebookで繋がっている。

甲斐さんは、そんな会ったことのない私のFacebookでの投稿を見て、物資を届けるプロジェクトを立ち上げた。人を集め、寄付を募り、物品を買いに行き、ロンボクへの運送車とわかるよう垂れ幕を作り(物品輸送車の多くは垂れ幕を掛けている。今、ロンボクの港は混乱しているのだが、これがあると通過しやすいらしい)、フェリーで半日かけてバリからロンボクへ来て見知らぬ道を車で走るのだ。

甲斐さんだけでなく、被災後すぐに被災地へ物資を届けるということにどれだけ時間もお金も労力もかかるか。私も阪神大震災のときサッカー部の同級生と神戸へ水を届けようとして、結局成し得なかっただけによくわかる。

甲斐さんのfb

事前にお願いしていた生理用品、オムツや薬のほか、古着やぬいぐるみもあった。

ぬいぐるみは小さな子どもたちに一つずつ渡され、とても喜ばれた。

さあ、ここからが問題。古着をどう配分するかで揉めた。最終的に「これはみどりが友達からもらったものなんだから、みどりに分け方を決めてもらおう。みんな文句言うなよ!」「おう!」ということになった。

弱ったなぁと一瞬思ったが、すぐに「じゃんけん大会をして勝ち抜けた人から好きなものを持っていくことにしよう!」と思いついた。わたし天才!と喜び勇んで子どもたちを集めルールの説明…と、その隙に大人たちが我が子のための古着を漁り始めた。「あ!ズッルーイ!」などと言われても気にしない。私の「待って!」の声もかき消され、あっというまにお母さん達による争奪戦が始まった。

すぐにソレッと飛びついた子どもは好きな服を選べたが、まじめに私の前でじゃんけん大会をしようとしていた子たちは出遅れて泣いていた。また次も服が来るからね、待っててねとなだめるとなんとか泣き止んでくれる。だーかーらー、じゃんけん大会にすると言ったのにぃー、大人が邪魔すんなよーーーーと怒りたくなる。が、周りの男性陣があーあと苦笑いしながら「大騒ぎだねぇ」と見つめていた。私も怒らず、それに倣った。

ふぅ、古着の分配一つとっても難しい。

水やテントなどはもっと難しいだろう。

私たちの避難地は一つの集落の人間たちだけで成り立っている。人数も150人程度だ。これが近くの警察署の裏など2000人、3000人ともいわれる人々が一箇所にいる。どのように分配しているのか。集落同士の殴り合いのケンカも始まっていると聞いた。日本のように列に並ぶことなど日頃からないし、ロンボクの人々らいい方法で配分できるといいんだけどな。アチェの津波の時はどういうふうにしたんだろう。知恵を出すべきことが山のようにある。

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この土日の特筆事項は、ほかの避難地との行き来が出て来たことだ。一部の男性はかねてよりほかの避難地にも行っていたが、今回は子どもやお嫁さんも連れて兄弟や親戚のキャンプ地へ見舞いに行くようになった。そうしていくつかの情報交換ができ、人の移動も少しあった。私たちの避難地も新たに一組の家族を出迎えた。我が家の前の家族だ。娘と同じ年頃の男の子がいて、早速二人は一緒に遊び始めた。

このように、地震発生後一週間が経ち、最も基礎となる衣食住の組み立て以外の時間が少しずつつとれるようになった。それらは、娯楽や休息や情報交換や我慢していた小さな病気のケアに当てられた。最初の大きな一山を越えたように感じた。

みどり

追伸

甲斐さん、甲斐さんのプロジェクトにご協力くださった皆様、

バリからありがとうございました!

甲斐さんもロンボクの離島ギリトラワンガンで不動産業を展開しておられます。環境問題への関心ももっておられます。

→甲斐さんのブログはこちら

●寄付金状況 8/15現在●

Polcaを使用して被災地への支援金を募っています。

1回目 目標額10万円  300%の30万円達成 ありがとうございます

2回目 目標額10万円 300%の30万円達成 ありがとうございます

3回目 目標額10万円 →こちらで継続中

個人口座への振込 37万円 ありがとうございます

※8/15、村の信頼できる方に声かけいたしました。まずは情報収集、何にどの段階でどのようにお金を使うのかを決め、地方政府とも連携しながら確実にやっていくことで合意しました。引き続きご報告してまいります。

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